社会人、社会学を学ぶ

社会学を社会人になっても学び続ける記録

【大学】隠されたヒバクシャとグローバリゼーション

1. はじめに

 「日本は唯一の被爆国である。」という認識が、いつの間にか脳に刷り込まれていたことに気がついたのは、ごく最近のことだ。きっかけは、6月3日の『グローバリゼーションの社会学』の講義で語られた、原子力というテーマに興味を持ち、もっと知っておかなければならないことがあるのではないか、と大学の図書館を散策していたときに、「ナガサキ」「ヒロシマ」というトピックと同じ棚に、「韓国」というキーワードを発見したことだ。数分立ち読みしただけでも理解したことは、第二次世界大戦中、日本に核爆弾が落とされた日、そこには日本人だけではなく、たくさんの外国人が労働者として従事し、日本人と同じく、その核爆弾を受けて被爆したということ。

 ここに政府の、そして日本の「危うさ」とでも言うべき歴史を感じた。私たちは、日本の発展のためのアイデンティティとして採用された「唯一の被爆国」というフレーズを疑うことなく、さらに言ってしまえば何の関心を持つこともなく過ごしてきた。

本レポートでは、ここにどのような歴史が隠され、どのような結果を及ぼしたのか議論していきたい。

 

2. 韓国の被爆者―ヒロシマは韓国にもあった

 結論から述べると、市場淳子によれば広島、長崎における全被爆者のうち約一割が朝鮮人であったという(市場淳子, 2000, 28頁)。この実態については、原爆が落とされた日から今日にいたるまで、日本の政府は一度も調査をしておらず、あくまでもこの数字は在韓被爆者団体である「韓国原爆被害者協会」「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の調査から推定される数字である。それでも、その調査によって推測される七万人以上にも及ぶ朝鮮人被爆者が存在していたという事実は多かれ少なかれ正しいのではないか。というのも、朝鮮人強制連行の歴史が確かに存在していたからだ。そうして連れてこられた朝鮮人は、異国の地で労働し、戦争の総動員の一部として組み込まれていたなかで、原子爆弾が投下されたのだ。

 正直、正確な数字について、答えを導き出して、ここでその被害の大きさを訴えることは難しい。何割の人々が何人で、何万人もいた。そのうち何人が被爆によって亡くなってしまったという事実を確認していくことではなく、「日本は唯一の被爆国である」というアイデンティティで、それらの事実を覆い隠してしまっていることが最大の問題だ。終戦後、日本から解放され、自国へと帰っていった被爆者たちはどのような生活を送らなければならなかったのだろうか。

 そんな中、日本ではあるいは事件をきっかけに、原爆被害者たちが被害補償を叫ぶようになる。その事件こそがマグロ漁船である第五福竜丸に乗っていた船員たちが、アメリカの水素爆弾実験によってもたらされた放射性降下物を浴び、被曝してしまったという事件である。またもや日本は原子力という強大な力に被害を被ってしまったのだ。ここで、初めて原戦争下で原子力爆弾によって被曝した人たちが、原水爆反対と、その被害に対しての補償を求めて運動を起こすようになってきた。そうして、日本では1957年に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が制定され、実質的に日本の被爆者は政府によって、その被害に対して補償されるようになっていった。しかし、韓国に帰った被爆者に、その補償はめぐってこなかったのだ。

 1968年、日本では「原子爆弾被害者に対する特別措置に関する法律」が制定され、被爆者に対する手当てが補償され始めた。しかし、ここにおいて在韓被爆者は対象とされていなかった。その後も、在韓被爆者たちによる訴えと、日本政府側によるその場しのぎの対応が幾度となく繰り返され、まるで被爆者が高齢となり、訴えが消えるまで時間稼ぎをしているかのような状態が続いている。

 

3. どのように隠してきたのかー戦争博物館から考える

 ここで確認しておきたいのは、在韓被爆者たちがどう訴え、日本政府がどう対応してきたのか、という歴史と並んで、どのように隠してきたのかということである。私は今日に至るまで、在韓被爆者及び、在外被爆者という存在を知らなかった。もちろん、私の知識、そして勉強不足であるという落ち度も考えなければならないが、田舎の公立高校に通い、都内の中堅大学に進学してきた、今年で22歳になる成人男性である私は、言ってしまえば普通の、ごくありふれた一般的な日本国民として、例外などではなく、むしろ、この現状こそが大多数で、当たり前であると考えても言い過ぎということはないと思うのだ。

 ここからは、在外被爆者という問題を私たちに隠すことに作用してきた機能について、博物館という観点から議論していきたい。

 今年の6月、私は初めて靖国神社を訪れた。きっかけは、「歴史と社会」という講義のレポート作成のための調査だったが、私自身、あの靖国という空間に非常に興味を持っていた。理由は、「なんか危険そう」だから。私たちは、「なんか危険そう」という曖昧な感覚を多くの場面で発揮している。ニュースで報じられるテロ集団、宗教、北朝鮮共謀罪など、私たちはこれらのキーワードを「なんか危険そう」というフィルターを通じて享受し、さらに無関心な態度で投げ捨てる。靖国というキーワードについても、「戦争を正当化することになるから、被害国は参拝反対するんでしょ。」くらいの感覚で、それ以上に関心は持っていなかった。

 結果として、初めて訪れた靖国という「なんか危険そう」な空間は、不十分すぎるほど、普通だった。どれほどのプロパガンダ精神が込められていて、どんな危険な思想持った人々が参拝に訪れているのだろうという期待を持ち、先の講義のレポートでも、それらについて以下に批判をしてやろうかと意気込んでいた私にとって、すっかりの拍子抜けだった。

 話を本論に戻すと、ここで注目したいのは博物館というポイントだ。日本には国立の戦争博物館というものが存在しない。唯一存在している国立の歴史博物館ですら、首都である東京都ではなく、千葉県にある。ここ、靖国に同じく建設されている遊就館という博物館(正確には、靖国神社に祭られた神々にゆかりのある資料を集めた宝物館)が、現状で最も国の正式な戦争記録に近いのではないかと思う。

 そこでは、日露戦争を伝える映像に映る「大勝利!!!」というテロップや、天井から吊るされる旭日旗など顔をしかめる場面も度々あったが、先に述べた通り、確かにこの遊就館にも戦争を賛美する、強いメッセージ性を持った精神は見当たらなく、私たちが教科書で学んできた歴史をごくありふれた形で展示していたというだけであった。

 ただし、そこに日本国民以外について語り、また彼らも祭るという記録はなかった。もちろん、広島、そして長崎に投下された原子爆弾の被害の大きさ、復興までの悲惨さは堂々と記録されている。戦争のために命を落とした彼らも、日本国にとっては宝であり、記録すべきものだからだ。しかし、同じく日本のために、総動員の一部として巻き込まれた多くの在外被曝者たちは、ここからすっぽり抜け落とされてしまった。

 遊就館の最後の展示は、「靖国の神々」である。そう、日本国のために亡くなった兵士たちの遺影を、神々として記録しているのだ。白黒の若い青年たちの写真が壁一面に敷き詰められた空間は、ただ無味乾燥だった。日本国に仕える者として特攻する兵士の遺書、それを誇りに思うと思いを綴った母からの手紙、その他諸々の当時の記憶が、称賛を交えて演出されていた。確かに、戦争下を過ごした人々、そして国のために戦死した遺族にとって、この記憶は希望であるのかも知れない。国が「間違いだった。」と反省し、この記憶まで亡き者にされてしまったら、さらに地獄へ叩きつけられる思いだろう。

 それこそが、この忘れ去られてしまった在韓被爆者のいまなのではないか。どこにも記録されることなく、時間稼ぎをされて、元凶である日本という国の国民は彼らの存在すら知ることがない。むしろ、彼らを隠すことによって生んだ「唯一の被爆国である日本」というアイデンティティで大きな発展を遂げてきたのだ。

 やがて、タイムリミットを迎えて、訴えが消滅したとき、その訴えさえも政府は覆い隠して、私たちはその歴史を知ることもなく、平然とまた同じ過ちを繰り返していくのだろうか。

 

4. 原爆と原発―日本は唯一のヒバクコク

 最初に疑った「日本は唯一の被爆国である」というフレーズは、こうして見るとあながち間違いではなかったのではないかと思う。それは、原子力爆弾によっての被爆と、原子力発電によっての被曝という2つの意味においての「ヒバク」で考えたとき、「日本は唯一の被爆国である」からこそ、原子力を最も安全に扱えるという幻想またはなんとかその場しのぎの連続で繋ぎ止めたまやかしが崩れ落ち、またもや東日本大震災という形で多大な被爆被害者を生んだこの国は、確かに二重の意味での「日本は唯一のヒバクコクである」と言ってもおかしくはない。

 そうしてまた、ここでも日本の外からからやってきた(連れてこられた)労働者たちが、かつての在外被爆者と同じように被曝しながら労働を強いられている。戦争と震災、形は違えど、その歴史の内容にそういった点での違いはない。また、同じ歴史を繰り返すように、日本から世界へ向けて被爆者を作って送り出しているのだ。

 これまで述べてきた通り、海外から労働者を集めて、世界中の人々をヒバクさせてしまうという日本の歴史は戦争期からいまでも続いているものだった。このヒロシマナガサキ、フクシマに隠された外国人労働者、そして被害者はどれだけ存在しており、私たちはそのことをどれだけ把握しているのだろうか。移民政策としてブラジルに渡った日系人被爆者など、まだまだ議論すべき問題は世界に残されている。

 もはや原子力の問題は、国内だけの問題ではないのだ。まさに世界中の人を巻き込んだ国際問題として、グローバリゼーションという観点から見て言うべき問題なのだと思う。

 

5. おわりに

 この夏、私が大学4年生であり、最後の夏休みを迎えるということで、私の地元、北海道の友人らと計画していた、フィリピンのセブ島への旅行は中止となった。理由は、イスラム過激派組織ISILによるテロの可能性が高く、私たちが訪れる予定であった地域も少なくとも、警戒レベル1に指定されており、「滞在にあたって特別な注意が必要です。」と喚起されたからだ。このとき、私たちは、何を思うのか、答えは簡単で、「また、危ない奴らが、勝手に暴れて、迷惑をかけている。」というのがたいだいの思いだ。このようなテロに限らず、北朝鮮のミサイルなんかも同じだ。ほとんどの人にとって、「危ない奴ら」が暴れる理由は、「彼らが危ないから」で片づけられてしまう。テロや核兵器など、人の命の問題だけではなく、韓国との領土や慰安婦の問題なんかも、しっかりと多角的に問題を捉えられている人はどれくらいいるのだろうか。少なくとも、私は『NHK高校講座』という高校生向けの簡単な教材を、たった15分視聴するだけでも、イスラム過激派組織ISILがなぜこのような事態を引き起こしているのかを理解した。ある程度の理屈があっての結果なのだ。この世の全ての、紛争、問題がそうであるのだと思う。

 本講義及び、現代社会学科に所属して4年目を迎えて、いま思うことは、社会学とは私たちの生きるこの社会に対してどれだけの多くの「目」を持つかということを学ぶ学問だということ。一時期、本をまったく読まない人と、読む人によって見える世界が違うといった風刺絵が話題になったことがあったが、そのような感覚を確かに感じることが出来た。

 一つのことを見るにしても、全くその物事の捉え方、関心の持ち方に多くのバリエーションがある。「コンビニのアルバイト先にベトナムからやってきた出稼ぎのやつが、ろくに日本語も話せず使えない。なんできたんだろう。(笑)」「知り合いに、ホモのやつがいてやばい(笑)」など、友人との当たり前の会話の中にも、このような「危うさ」は多く存在する。この「危うさ」に対して、どう対処すべきか、いま私は全く分からない。それでも、口を紡ぎ、そこに「危うさ」が確かに存在していることだけは実感している。

 来年の春から、私はゲーム会社にてプランナーとして働き始める。学問とは程遠い、さらにいってしまえば、映画よりも漫画よりも、テレビよりも低俗と捉えられる社会の悪かも知れない。現に、海外の友人に「Games are a disease on this world.」と言われたことがあり、何も言えなかったことがある。それでも私はゲームというものを、映画や本と同じ、伝えるためのメディアであり、さらには中でも最も優れていると信じている。かつての音楽が、政治と結びついていたように、これらのメディアはエンターテインメントというベールに包んで、政治的な、もっと簡単に言えば、世界の問題についてヒントを与えていくような可能性を持った、知識の結晶に近いものであると思っている。

 私は、4年間の中で、とりわけ本講義を担当した中田先生から小文字の歴史、つまり世界に隠された問題について、しっかりと見ていけるようにたくさんの「目」を持つ大切を学んだ。講義が終了し、大学を卒業しても、いまを生きるリテラシーとでも言うべき、これらの学びを忘れず、同時にそれらを伝えていく側として、一生懸命生きていこうと心に強く刻みたい。

引用・参考文献

  • 市場淳子,2000,『ヒロシマを持ちかえった人々——「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』凱風社.