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【大学】『武道館』にみるアイドルの「若さ」とその可能性―メディアの理論―

はじめに―なぜ『武道館』か

 講義のなかで、アイドルの恋愛禁止について触れたとき、この『武道館』を思い出しました。『武道館』とは、直木賞作家・朝井リョウによる小説で、武道館ライブを目指すアイドルグループを描いたものです。先に、この物語の結末を述べると、引退したアイドルたちが、その数十年後に、彼女たちの夢であった武道館の舞台に立つというものです。その舞台裏で作業していたイベントスタッフは次のように語っています。

 

覚えてません?あのころって、彼氏発覚で炎上とか脱退とか、今じゃありえないこといっぱいあったじゃないすか。坊主にして謝罪した子とかもいたんですよ確か(朝井 2016:292)

 

 この台詞に対して、別のスタッフは「あー、今と真逆だな」と返しています。このいつかのイベントスタッフがいった「真逆」とは、いまのアイドルに対する「真逆」を意味しています。そして、彼氏の発覚でアイドルが炎上したり、脱退したりすることは、「ありえない」というのです。

 

共感を呼ぶ恋愛ソングでお金を稼いでいた女性アイドルが実は恋愛経験がなかったと発覚し謝罪に追い込まれたりしている。(朝井 2016:292)

 

 むしろ、恋愛経験がないことこそ、スキャンダルであるといいます。もちろん、これはフィクションだからこそ、いまの現実とは「真逆」でありえるのかも知れません。しかし、必ずしもこのような状況がありえないといい切れないのも事実です。現に、松田聖子は結婚をし、娘もいますがいまでも活動を続けています。また、近頃のモーニング娘。でも、辻希美などが家庭を持ちながらもステージに立っているシーンがしばしばみられるからです。

 ところで、『武道館』では、「選択」というのが大きなテーマのひとつであります。物語の主人公である日高愛子が、離婚し離れて住む両親のどちらと一緒に暮らすかという「選択」から始まり、最後には幼なじみの水嶋大地と一緒にいる(恋愛をする)という「選択」をして、アイドルをやめることになります。

 先にみたように、日高愛子を含む当時のメンバーが、かつての夢であった、武道館の舞台に、数十年のときを経て立つというのが、この物語の結末でした。ここで、明らかにしたいのは、これは、彼女たちの「若さ」ゆえに成立しうることであり、かつ、ファンが彼女たちに恋愛対象であることではなく、むしろ「若さ」を求めるという「選択」をしたからではないか、ということです。

 それでは、この「若さ」と「選択」という二つの観点を軸にしながら、先の仮説について検討していきます。

 

アイドルの「若さ」

 一般に、アイドルといえば、竹内義和の著書『清純少女歌手の研究―アイドル文化論』のタイトルにあらわされているような「清純少女」をイメージします。それゆえに、アイドルは、「若さ」と切っても切り離せない関係にあります。この「若さ」に関して、西先生は『アイドル/メディア論講義』のなかで、次のように説明していました。

 

プロスポーツと同様に、アイドルグループはまさにグループであることによって、「卒業」という制度を組み込み、メンバーを次々と入れ替えていくことで、「清純少女歌手」と定義される<アイドル>の「若さ」を維持してくことを可能にしているわけです。(西 2017:32)

 

 いわゆる「卒業」という制度によって、メンバーが入れ替わっていくこと、その「新鮮さ」こそが、「若さ」でありました。『武道館』でも、メンバーの入れ替えという出来事が描かれていますが、そこで日高愛子は次のように語っています。

 

 自分はもうすぐ、学生ではなくなる。制服を模した衣装は、つまり、ほんとうの姿ではなくなる。NEXT YOUのNEXT YOUらしさを削いでしまうのは、新しく入ってくる二期生ではなく、歳を取っていく自分なのかもしれない(朝井 2016:187)

 

 制服を着て踊り、握手会を「席替え」と呼ぶなど、学校をコンセプトとしたNEXT YOUには、もう学生の年齢ではなくなるのだから、これ以上いるべきではないのかも知れないというのです。確かに、年齢の問題も無視することはできませんが、「若さ」とはという問いについて、西先生は次のようにも説明していました。

 

新たな状況に置かれ、そこで学んでいく姿勢こそが「若さ」なのです。(西 2017:81)

 

 一見、年齢の問題にみられがちな「若さ」ですが、それだけではないのです。つまり、新たな状況に置かれ、そこで学んでいく姿勢がある限り、日高愛子は「若い」のであって、NEXT YOUらしさを削いでしまうということには繋がりません。

 このようにアイドルとは、なるべくして「若い」のですが、それはファンにとって、どれほどの意味を持つのでしょうか。恋愛において、「若さ」、あるいは年齢は、重要な指数のひとつとなり得ます。そして、アイドルの恋愛がスキャンダルとされることからわかるように、アイドルはが、疑似恋愛の対象であることは、否定できません。しかし、いまのアイドルに求められているのは、それだけではないことも確かです。このことは、西先生の次の説明からも明らかになります。

 

新たな状況にサプライズとして晒され、それを切り抜けていくことでみずからの成長を証明していかなければならない<アイドル>たちは、そのような状況に対応する「ハビトゥス」=「力」をファンに対して身を持って示し、伝達しているのです。(西 2017:117)

 

 「教育する<アイドル>/メディア・ハビトゥス」という章で書かれた説明ですが、このように、アイドルとは、彼女たちから新たな状況に臨む姿勢を学ぶ、まさに、教育する者としての役割を果たしているわけです。こうして新たな状況に臨み、切り抜けていくというアイドルたちの「成長」を、同じ共同体として見守るファンですが、ここに、疑似恋愛の対象という視点はどれほど残っているのでしょうか。この点について、具体的な事例を用いて、次の章で考察していきます。

 

挑戦するアイドル

 AKB48選抜総選挙で、NMB48須藤凜々花が結婚を宣言したことは、記憶に新しいですが、このとき、ファンは失恋をしたのでしょうか。確かに、須藤はテレビ番組『良かれと思って!』(フジテレビ系、2017年―)に出演した際に、自身のファンについて「めちゃくちゃ減りました」と答えています。しかし、ファンから直接クレームを受けるといった場面では、ファンは次のように語っています。

 

びっくりです。ただ、ここで言うか?と思ったんですよ。〔中略〕世間で叩かれていた金返せとかは一切思わなかった。ただ配慮したタイミングでいえばいいのにとは思いました。(良かれと思って! 2017)

 

 もちろん、須藤に対する批判は、世間だけではなく、同じAKBのメンバーからも浴びるほど、大きなものでした。しかし、このようなファンの反応も、少なからず存在していたはずです。ここで明らかになるのは、このようなファンは、彼女を疑似恋愛の対象としてではなく、「若さ」を持って成長していくこと見守るという「選択」をしていたということです。だからこそ、結婚という新しい状況に臨む彼女を批判することはありません。ここでは、むしろ、関係者に迷惑をかけないように配慮したタイミングで伝えるという、大人の対応を身につけるべきだと、「成長」すべき部分に対して言及をしているのです。

 もし、このような「選択」をするファンが増えるとどうなるでしょうか。それこそが、先にみてきた『武道館』が描いた未来のアイドルなのです。日高愛子が、アイドルではなく、恋愛という「選択」をしたことが、炎上したとき、ファンは彼女に疑似恋愛の対象であることを求めていました。しかし、彼氏が発覚することで炎上したり、脱退したりすることが、「ありえない」ことになったというのは、ファンが、アイドルに疑似恋愛の対象であることを求めないという「選択」をしたことを意味します。

 ここで確認しておかなければならないのは、疑似恋愛の対象であるからということに加えて、アイドルの恋愛が禁止されている理由がもうひとつ考えられるということです。この点について、西先生は次のように説明していました。

 

恋愛禁止は、グループ内部での関係性を前景化させるための仕掛けなのです。(西 2017:138)

 

 確かに、外部との関係性を閉ざすことで、グループ内部での関係性が強調される面もあります。しかし、恋愛をしたからこそ、グループ内部の関係性が突き動かされることもあるのも確かです。たとえば、『アイドル/メディア論講義』でも取り上げられていましたが、AKBの指原莉乃のスキャンダルは、その例のひとつといえるでしょう。指原のスキャンダルが発覚したとき、彼女はHKT48への移籍が命じられました。AKBにとっては、指原を失う、またHKTにとっては指原が加わるということで、それぞれグループ内部の関係性に影響を与えます。それだけではなく、指原莉乃にとっては、新たな状況に置かれるという意味において、「成長」するチャンスです。『武道館』でも、日高愛子、堂垣内碧が恋愛によるスキャンダルを起こしていますが、数十年後にもNEXT YOUが存続していたことを考えると、残りのメンバーとファンがより一体となって、「成長」をし続けてきたということがわかります。つまり、恋愛禁止とは、恋愛が禁止であることによって、グループ内部の関係性が前景化するのではなく、まず恋愛禁止という前提があり、そのうえで、恋愛をするというスキャンダルによってこそ、他のメンバーとファンどちらにとっても、「サプライズ」なのであり、グループ内部の関係性に、刺激を与えるというアイロニカルなものなのです。

 この点をより明らかなものにするのは、『あいのり』(フジテレビ系、1999年―)や、『テラスハウス』(フジテレビ系、2012年―)を代表とするリアルTVです。ここで確認しておくべきは、アイドルの恋愛が禁止される理由について、もはや、『テラスハウス』を参照することはできないということです。というのも、『テラスハウス』では、外部との恋愛(接触)が許されています。それは、外部との恋愛をしてはいけないという前提がないからです。だからこそ、外部との接触は、内部での関係性を前景化することに繋がりません。それに対して、『あいのり』では、外部との恋愛(接触)がルールという明確な前提によって、禁止されています。それゆえに、スタッフとの恋愛が発覚したことが、スキャンダルとして記録されて、他のメンバーや視聴者に「サプライズ」として現れることによって、内部の関係性に刺激を与えるのです。

 このように、いまアイドルの恋愛が禁止されているのは、外部との関係性を閉ざし、内部の関係性を前景化するためではなく、まず恋愛禁止という前提があり、そのうえで、恋愛をするというスキャンダルによって、グループの内部、または、アイドルとファンを含めた共同体に「サプライズ」を生むことができるからなのです。

 このように、恋愛禁止という前提があり、それを破ることが「サプライズ」であるならば、その「サプライズ」は恋愛禁止という前提を破った「サプライズ」である必要がありません。「サプライズ」の目的が、グループ内部の関係性に刺激を与えることである限り、「サプライズ」は他の「サプライズ」に代替することができるというのが、ここでの主張です。それでもなお、アイドルが恋愛禁止である続けるのはだからこそ、ファンにとって疑似恋愛の対象であるからだといえます。

 それゆえに、『武道館』で描かれていたように、彼氏が発覚することで炎上したり、脱退したりすることが、「ありえない」ことになったのは、ファンが、アイドルに疑似恋愛の対象であることを求めないという「選択」をしたことを意味します。それでは、ファンはここで、アイドルになにを求めたのか、それが「若さ」です。冒頭で確認したように、「若さ」とは単に年齢を示すものではありませんでした。ましてや、疑似恋愛の対象ではないのですから、なおさら年齢は問題になりません。また、若さとは、新たな状況に置かれ、そこで学んでいく姿勢でもありました。そのうえで、ここで主張したいことは、「若さ」とは、さらに「新たな状況に挑戦する意志」も含まれるのだということです。これまでは、アイドルとファンという共同体が、運営という外部からもたらされた「サプライズ」によって、新たな状況に置かれ、切り抜けていくというものでした。しかし、『武道館』では、「新たな状況に挑戦する意志」も「若さ」とされるのです。つまり、結婚し、子どもを持っていたとしても、アイドルとして、武道館の舞台に立つことは、自ら「新たな状況に挑戦する意志」を示しているであり、それゆえ「若い」のです。

 ところで、「若気の至り」という言葉があるように、「若い」ときには「選択」を誤ることがしばしばありますが、それは「若気の至り」として、のちには肯定されることになります。ともすれば、日高愛子がアイドルではなく、恋愛を「選択」したことも「若さ」ゆえということになります。つまり、ここで日高愛子が恋愛を「選択」したことも、「新たな状況に挑戦する意志」を示しているのです。だからこそ、彼氏が発覚することで炎上したり、脱退したりすることが、「ありえない」状況では、たとえ恋愛を選んだとしても、「新たな状況に挑戦する意志」を示しているとして、応援してもらえるのです。

 

おわりに—ファンの「選択」

 これまで、「若さ」という観点から、最後は「新たな状況に挑戦する意志」という可能性も含めて、『武道館』に描かれたアイドルについて明らかにしてきました。そこでは、アイドルの「成長」も重要な視点でありましたが、ここに「制服」を着たり、握手会を「席替え」と呼んだりするような、学校をモチーフとしたコンセプトの意味を確認することができます。学校に通う、学生とは見守られるべき存在です。制服とは、学生に集団意識をもたらすための道具として機能する側面もありますが、同時に、守られるべき存在と認識できるという機能もあります。だからこそ、たとえば、制服を着て、青少年健全育成条例に違反した時間に外出したら、すぐに補導されるでしょう。このように、「制服」とは、見守られる存在であることを瞬時に示すのです。だからこそ、「成長」を見守られる存在であるアイドルは「制服」を着るのです。

 そして、『武道館』で描かれたアイドルは、「制服」ないしは学生が持つ機能を、さらにもうひとつ獲得していました。それは、これまでに何度も確認してきた「新たな状況に挑戦する意志」です。学生には、進路があり、いずれは卒業していきます。しかし、いまのアイドルは、この進路を自分で「選択」することが、許されていません。唯一、歓迎されるのはアイドルをまっとうし、年齢を重ねたアイドルの「勇退」のような場合です。たとえば、女優やタレントという進路こそ、ありふれたものであるがゆえ目立ちませんが、日高愛子が恋愛のスキャンダルをきっかけにグループを脱退したように、ここでは恋愛という「選択」は許されていません。

 しかし、「成長」する学生は、いずれ自らが「選択」した進路へと進んでいきます。いまファンは、この「成長」だけを喜び、「新たな状況に挑戦する意志」を許していません。自ら「選択」できない進路は、窮屈極まりないものです。いずれ、「成長」し「選択」していけるようなアイドルが「ありえる」という可能性を『武道館』に確認することができました。

 以上、『武道館』に描かれたNEXT YOUについて論じてきましたが、そもそも、これらを分析対象にしたのは、アンチテーゼ的側面を持つ、作られたフィクションであるからこそ、現実のアイドルを映す鏡となるのではないかと考えたからでした。アニメやゲームなどの二次元アイドルですらない、彼女たちを実際のアイドルと重ねて分析するのは、大変難しく、限界も感じました。しかし、確かに、現実のアイドルを映す鏡として機能しただけではなく、あらためてアイドルの魅力を再確認することに繋がったのではないかと思います。

 

参考文献